限界

これはグミか それともガムか

『アド・アストラ』感想 正直つまらない

『アド・アストラ』見に行ってきました。

んですが、正直つまらないな?というか自分には響かなかったので、詳しく書いてみようと思います。

 

主題が伝わらない脚本

これってどういう映画なのか

 まず、『アド・アストラ』の主題って何?という点について考えます。

 物語の始まりは、「地球を滅ぼすかもしれない父親を探しに行く」という極秘のミッションです。そして父親は、未知の知的生命体を発見するミッションを遂行しているうちに行方不明になったということもわかります。

 

 主人公は、物語の前半で、「誰にも、何にも頼らない」と独白し、アイデンティティとしていました。しかし映画の最後、他人に頼り、分かち合うことの大切さを認識します。

 この映画で描かれた主題は、まさにこの主人公の成長だと思います。

 

 しかしこの主題が、きちんと伝わらない脚本だということがはっきりとわかりました。

 

 

いろいろな「これ必要?」

 この映画では様々な「SF要素」が出てきます。しかしそれらがうまく作用していたかというと、そうではないと思います。

 

 まず、主人公が映画冒頭で作業をした電波塔。宇宙エレベーターかと思うほどのその高さに、とてもワクワクしたのを覚えています。

 しかし、なぜ電波塔が立っているのか、という説明は出てきませんでした。単に観客を引き込むために作られたセットです。

 

 そして、月面の基地。月では資源を巡って紛争が起きていました。主人公は略奪者に襲われそうになります。

 このあたりもよくわからないです。ちっぽけなローバーに奪うべきものが積んであるとは思えません。物語を盛り上げるために用意された試練でしかないと思います。

 その戦いで「仲間と戦うことの重要さ」を学んだりしていれば、成長物語がもっと実感あるものになっていたと思います。

 主人公は月面基地に来た時に俗世のものを嫌うような独白をしますが、その後特に活用されません。観客はペシミスティックな主人公についていけなくなってきます。

 

 救命信号を受信して向かった宇宙船では、まさかの人食い猿が出てきました。なんで出てきたんですか?船長が死にましたが、別に問題なくミッションは遂行されましたね。

 

 反物質とサージ電流も、必要だったのでしょうか。反物質が必要な仕組みが説明されることもなく、ただSF感を増すために付け加えられたものです。

 

 知的生命体の存在も、物語を混乱させるだけだと思います。物語にほとんど関係ないのに、まるで重要な存在かのように広告するのも良くないです。

 

 

致命的に足りないもの

 これだけ要素を増しておきながら、物語を語る上で足りないものがあります。人物のバックボーン、そして成長の過程を表すものです。

 

 主人公は人と関わることに消極的でした。なぜでしょうか?説明がされていません。

 父親も、なぜ人と関わることをやめて知的生命体に入れ込むようになったのでしょうか?

 そもそも主人公が父親に拘る理由はなんですか?モノクロ映画、では説明になりません。

 主人公はなぜ人と関わることについてポジティブに捉えられるようになったのでしょうか?そのきっかけは?課程を表すものは?

 

 そして、主人公は父親と対面して何を得たのでしょうか?

 

  描写が足りていない。そうとしか言えません。

 

結果

 要らないものの説明に終始して、必要なものを描写しなかった結果、この映画は「なんだかわからないけど高尚なSF」として捉えられてしまうに至っています。

 きちんと人物の人格が形成されるにいたる理由、そしてその変化をとらえて描写していれば、ブラッドピットの演技が光る映画になっていたと思います。

 

 まだ人食い猿のパニック映画の方がマシです。

 

 というか、終盤で主人公がアンテナの回転を利用して宇宙船と宇宙船を移動するシーン、何を考えてるんだ?と思ってしまいました。いきなり回転するアンテナに乗ったと思ったら板を抱えてジャンプ、見えないくらいの距離にあった母船へ帰還。無理に決まってるでしょ……そういうありえなさは『オデッセイ』が限界ラインだと思います。

 

 話のスケールが小さいからといって、リアルだというわけではありません。

 

 

観客の期待

 そもそもこの映画を見に行く人は「行方不明の父親」「地球を襲う危機」「未知の知的生命体」このワードにつられるんじゃないですか?

 

 つまり「未知の生命体を探しに行った父親は人知を超えた体験をして、自身の意思かわからないけど、地球を滅ぼそうとしている」という想像はしていくでしょう。

 

 ところが、「行方不明の父親」→乗員のトラブルと人嫌い、「地球を襲う危機」→単なる事故で装置を止められなかっただけ、「未知の知的生命体」→いないし全く関係ありません。という肩透かし具合はひどいと思います。

 

 

おわりだよ

 そんな感じです。すべてが中途半端でした。

 

 評価できる点は音響です。月面で略奪者に襲われるシーン、銃の発砲音は聞こえないけど着弾して破壊される音は聞こえるという部分はこだわりが感じられました。SWみたいなのもありだと思いますけどね。

 

 帰りに『天気の子』のパンフが二冊出ていたのでそれを買いました。1600円しましたが、値段が同じくらいするこの映画より遥かに価値があると思います。

 

おわり。

天気の子

 やっとこさ『天気の子』見てきました。

 一回しか見てないので評論というか備忘録として残しておきます。

 

 

◯いいところ

 

変わらぬクオリティの撮影

 アニメにおいて「撮影」とは、出来上がった素材を合成する過程になります。

 


アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』制作風景 第6弾「撮影」

 

 新海誠監督作品が持つ魅力は、撮影技術の高さから生まれる圧倒的な画面の美しさだと思います。

 前作から変わらず、この美しさが保たれていて楽しかったです。

 

 

絵コンテ

 今作は空中でのシーンがかなり印象に残りましたが、監督のインパクトある絵コンテと先述の撮影技術が組み合わさったことで、観客の心に残るものになっていたなと思います。

 また、カメラが被写体に回り込む演出は、efのOP映像を彷彿とさせました。豪華で良いと思います。

 

 

話のわかりやすさ

 特殊な能力を持ったヒロイン、という出発点からとてもわかり易い話が展開していたと思います。前作と比べてもかなりわかりやすかったです。時間軸があまり前後しないのが理由かもしれません。

 

 

結末

 監督は賛否あると考えているようです。僕はこういうのも好きですが、それなら犠牲になった人々の描写をもっとしてくれたほうがより陰鬱で背徳感があって好きです。

 

 

◯わるいところ

 

会話のテンポ

 ちょっと間がつまり過ぎかな?というところがいくつかありました。テンポよく進行している部分もたくさんあったので、好みの問題かもしれません。

 

 

話のわかりやすさ

 前作では「入れ替わり」というギミックの上に「時間軸のズレ」という仕掛けをのせていて、それがとてもハマっていました。

 今作は「天候操作」というギミックの上には普通の能力もののストーリーが乗っていたと思います。

 好きなんですけど、何か仕掛けがあれば嬉しかったです。

 

 

ちょっと主張しすぎなボーカル

 前作ではかなり微妙なバランスで演出をしていたボーカル曲。醸し出されるMV感に戸惑いつつも、自分は楽しむことができました。

 しかし今作ではボーカル曲が多かった……と思うんですが、多分多かったと思います。さらに歌詞もシーンから自分が受け取るものと少しずれていて、ちょっと要らないと感じることがありました。

 「グランドエスケープ」まで来ると少し無理矢理だなと考えてしまいました。

 

 

お色気

 なんか露骨じゃないですか?同級生のリコーダーを舐めた話を嬉々として話していた監督はどこへ行ってしまったのか。

 せっかく話がわかりやすくて子供も見られるんだから、そういうの消してもいいと思いました。

 

 

総合

 全体的にはとてもおもしろかったです。前作からの期待がある中で、自分の作りたいものを作るというのはすごいことだと思います。

 ぜひ今度は天門さん担当の音楽で見てみたいなと思います。

Vtuberの二次創作に好きになれない物が多い理由

はじめに 

タイトル通り、Vtuberの二次創作を好きになれないな、なんでだろという考察です。全ての二次創作に当てはまるわけではないですし、ましてや自分以外の誰かに当てはまるわけでもありません。

また、いわゆる「中の人」にもふれます。

その辺り分かっていたたければどうぞ。

 

 

本題

先に結論を言うと、「要素の組み合わせ」が問題だと考えています。そのキーワードを踏まえ、アニメや漫画などのフィクションの二次創作との比較をしながら考察を進めます。

 

フィクションの二次創作

フィクションにおいて人物設定を作る時、それが持つ要素から考えることが重要とされます。

 

Googleで「キャラクター 設定」と調べると、多くのサイトで紹介されるのが「キャラクターにいくつかの質問をする」という方法です。

例えば「口調」「職業」「家族との関係」「好きな物」「苦手なもの」など。

「口調」はとても効果的かつ特徴的で、変な語尾を付ければそれだけで人物は目立ちますし、方言は人物の大事なバックボーンとなり物語の原動力にもなりえます。

そしてこれらの質問への答えは、人物が持つ要素(例えば「メガネキャラ」とか)となります。

 

ここからが持論ですが、読者が創作上の人物について理解を深める時、これらの「要素」を読み取り、それらを頭の中で再構築しているのではないか、と考えています。

 

今この記事を読んでいる人に聞きたいのですが、あなたが好きな創作上の人物が、それまで体験しなかったようなことに遭遇する時、どう行動すると思いますか?

そして、あなたはその行動をどうやって想像するでしょうか?

 

これはかなり初歩的な二次創作の手法ですが、ここに、さっきの「要素の再構築」のシステムが関係してきます。

要素を理解して再構築することでフィクション人物の理解をしている読者は、いざ二次創作者となると、その要素たちを呼び出し、要素同士の関係を考察することで、フィクション人物の行動を想像するということです。

 

まとめますと、創作上の人物において、

  • 人物を作る時、色々な要素を組み合わせる
  • 人物を理解する時、それが持つ要素を理解する
  • 二次創作を作る時、理解した要素を組み合わせて考察する

と考えています。

 

では、Vtuberについてはどうでしょうか。

 

 

Vtuberの二次創作について

まず、Vtuberには2種類存在すると考えています。

  • 用意された脚本、設定に忠実なもの(動画型)
  • 演じている中の人の人物像が現れているもの(ライバー型)

それぞれの多数派に応じて動画型、ライバー型と名前を付けました。御容赦ください。

 

さて、これまで読んでくださった方にはご想像のことと考えますが、「動画型」に関しては先述した「創作上の人物」と同一視しても良いかと考えています。

 

もっとも、きちんと脚本を用意して動画を出しているVtuberにも、ライブ配信などでちょっとした一面を覗かせたり、ひょんな事で動画からは想像できない人物像がわかる場合があります。

そういうものは、すべて「ライバー型」とさせてください。

 

さて、ライバー型ですが、もっとも重要なのは「中の人がいる」という紛れもない事実です。

よってライバー型を理解するならば、その中の人、つまり実在の人物について理解しなければいけません。

 

ライバー型のVtuber、その中の人を理解する時、創作上の人物を理解する時のノウハウはどれくらい役に立つでしょうか。

 

要素に分解して取り入れるという方法は、ある程度は使えるでしょう。大きな障壁となるのは、「実在の人物は要素から作られていない」ということです。

我々の人格が形成される上で、それまでの経験が大きく影響するのは説明せずとも明らかでしょう。

 

ここで、天の上の存在が人物としての要素を付け加えることはしません。むしろ、様々な経験が影響し合って、ひとつの摩訶不思議な「人格」が形作られます。

この人格という存在は、見る方向によって全く違う姿を見せ、時には矛盾して見えることすらあります(あるいは、本当に矛盾していることもままあります)。

 

そしてこの人格というものを要素に分けて理解する時、簡単な特徴を掴むことは出来るでしょうが、完全なシミュレーションを頭の中で行うことは出来ません。できるのは、なるべく多くの要素を組み合わせた、人格の近似値のような存在です。

 

では、これを二次創作に使ってみましょう。人格の近似値が持つ要素を組み合わせても、本物の人格を紙面に再現することは出来ません。二次創作者の視点から見たVtuberの近似的な存在に過ぎないからです。

 

そしてそれを読者が享受するとき、目につくのは画面の中のVtuberと、紙面の近似的なVtuberの(大なり小なりの)違いです。

 

この違いが、個人的にVtuberの二次創作を受け付けない理由だというのが、私の結論です。

 

もちろん、二次創作の中にも、かなりの精度でVtuberの人格に近づけたものはあります。そういったものは、二次創作者の人格理解の能力がとても高いか、たまたま上手くいったかです。個人的には前者を望んでいます。二次創作者のファンでいたいからです。

 

では、軽くまとめておきます。中の人がいる「ライバー型」のVtuberにおいて、

  • 存在するのは要素を組み合わせたものではなく、不確かだけれども確かに存在する「人格」
  • それを完全に理解するのは、ほぼ不可能である
  • それを紙面に再現すると、人格の近似値が生まれる

ということが言えます。

 

 

最後に

今のところ、私を納得させるのはこのような結論です。

 

先述しましたが、これは個人的な問題ですし、全ての創作に当てはまるものではありません。

いろいろな解釈があってしかるべきなので、反対意見や共感の声はぜひお寄せください。

 

 

最後に言いたいのは、Vtuberは生きている、ということです。故に、彼ら彼女らと関わるとき、我々はいつも以上に思いやりの気持ちを持たなければいけません。

我々視聴者の行動、関わりが、Vtuberの経験として「人格」に大きく影響し、時に取り返しのつかない結果を招くことがあるからです。

そして、画面の向こうに確かな「人格」が存在するからこそ、視聴者の体験はとても特殊で、何にも代えられない価値があるのだと信じています。

 

おわり。コミケの感想でもダラダラ書きたかったけどね

テスト終わり


テスト終わった!!!!

 

良くはないけども、とりあえず丈夫なロープを買う必要はなさそうで安心した

 

夏コミ参加する人間としてはお金の無駄遣いは減らしていきたいからね

 

 

 

 

テスト終わり祝いで買ってきました

 

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HUGE CHOCO MINTO AISU

 

1か月前、「チョコミントアイスは歯磨き粉の味がする」という衝撃の真実に気づいてから、定期的にチョコミントアイスを買っている(皆も秘密にしといてね)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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うまい!!!!!!!!

 

 

チョコミントアイスを馬鹿にする人は歯磨き粉を使う権利はないdesho……

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんか書こうと思ってたけどわすれちゃった……なんだっけか

 

 

 

 

 

全然関係ないけど女性がトイレットペーパーの好み話してるのめちゃくちゃえっちではありませんか!!!!!!!!!!???????????

 

 

おわり

 

今日、小柴葵に会えたら。1巻感想 物語の始まり

キラキラな”養殖女子”と

体育会系”天然女子”が織りなす

パンチドランク・ラブストーリー開幕!!

 

原作:竹岡葉月

漫画:フライ

 

 

今日、小柴葵に会えたら。 (1) (REXコミックス)

今日、小柴葵に会えたら。 (1) (REXコミックス)

 

 

 

 

 

あらすじ

大学3年生の冬、成田佐穂子は同窓会のために、関西から東京に帰ってきていた。

同窓会の会場で旧友たちと会う佐穂子。しかしそこに「小柴葵」の姿はない。高校卒業後、疎遠になったのだ。

 

佐穂子は、『今日 葵にあって確かめたいことがある』という。

そして、物語は佐穂子の回想へと入り、舞台は高校2年生の夏、葵との物語が始まった頃へと移る……。

 

 

 

キャラクター

成田佐穂子

主人公。杏那、理湖と仲がよく、三人が並ぶと『ちょっと壮観』。

学校の男子から『タグ付けするなら#天然』と言われているが、中学時代は『超絶地味子だった』ところを高校デビューした。葵と比べて『本物じゃない』と自嘲する。

『外面が良ければそれでいいじゃない』『朝からこんなにも視線を集めちゃう私……』という冒頭のモノローグや、文化部員たちに対して『もっさいわね』『地味……』と感じるなど、なかなか良い性格をしている。

 

小柴葵

もうひとりの主人公。杏那と中学が同じで、中学ではバスケ部に入っていたが、高校ではやっていない。いつも元気で、男子ともよくつるんでいる。佐穂子曰く『すごくすごく自然』な人物。

高校に入る前に母親を亡くし、父親は仕事で忙しく、小さい弟もいるため、高校ではバスケをせず家庭科部に入っている。

 

稲葉杏那

佐穂子、理湖と仲が良い。学校の男子からは『#クール』とタグ付けされている。

高校時代から佐保子と葵が仲良くすることを良く思っておらず、大学3年生の同窓会でも『小柴葵なんて来なければいい』と発言している。

 

渡辺理湖

佐穂子、杏那と仲が良い。学校の男子からは『#小動物』とタグ付けされる。

たまにブラックな一面を見せる。

 

文化部の面々

将棋部、天文部、家庭科部などで同じ部室を共有している。慢性的に部員が足らず、存続の危機に面している。

佐穂子にとっては中学時代を思い起こさせるような地味さ。

 

西野ちゃん先生

佐穂子たちのクラスの担任。佐穂子と葵を『問題ある子』と認識している。

 

感想

 ① 佐穂子と葵

佐穂子にとっての葵は、憧れの存在である。

地味だった中学時代から一転、高校デビューを果たし人気者の杏那、理湖と仲良くなれた佐穂子は、いわば計算づくの存在であり、『養殖』である。一方葵はいつも自然体で、男子たちと仲がいい。

葵は佐保子にとっての『なりたい自分』である。

 

そもそも、佐穂子の根底には「人気至上主義」のようなものが流れていると思う。要するに、自分の価値が他人からの評価に大きく依存している。だからインスタグラムで注目を浴びることを重視しているし、葵に近づく時に『二人で上げた同じテーブルの写真にインスタグラムのいいねも過去最高記録を更新ー!!』とテンションを上げている。架空の元カレを作って交際経験があるように見せかけている。

 

極めつけは、葵が家庭科部の部員たちといるところを目撃したシーンだ。地味な女子たちと仲良く話す葵に、『なんで小柴さんみたいな人が?あなたはもっと主役な人と付き合うべきじゃ?あなたまで地味子になっちゃうよ?』と心のなかで考え、「小柴さんもこんな人達と一緒にいるのは恥ずかしいに違いない」と決めつけてしまう。

 

葵と直接会って話した時、それは勘違いだとわかった。『恥ずかしいのは私の方だ』佐穂子は自分を恥じる。

『本物 なんだ小柴さんは 嫌わないで 本物じゃない 私のこと――』

『どうしよう どうしたら』

『嫌われずにすむんだろう』

 

 そして佐穂子は葵にキスをしてしまう。

 

突拍子もなくしてしまったキスは、理想の存在である葵に嫌われたくないという佐穂子の気持ちのあらわれだろう。

 つまり、(今の時点で)恋愛感情ではない。佐穂子は「女の子が好きでキスした」と誤解されたかもしれないと考え、それを解くため奔走し、結果として葵と同じ部活である家庭科部に入ってしまう。(結局、あったかどうかもわからない誤解は、はっきり否定されないままである)

人気至上主義の信者である佐穂子は、葵から「本当の自分でいること」を学ぼうとしているのだと思う。

 

 

では、葵についての佐穂子はどんな存在だろうか?

これは、佐穂子ほどはっきりと描かれていない。この物語は今のところ、佐穂子視点で進んでいるからだ。

 

だが、全く無いわけではない。

佐穂子が葵の家庭の事情を知り、改めて葵に感心するシーン。佐穂子の『バスケ やりたかったよね なのにえらいよ』という言葉に、葵は泣いてしまう。

 

佐穂子はこう独白する。

『いつもキラキラしていて 遠く前を走っているように見えていた小柴さんが 今日は とても近くに感じる』

佐穂子が知ったのは、大勢から思われているような葵とは少し違う葵だった。葵にとってはそちらの方が本当の自分なのかもしれない。その姿を「えらい」と認めてもらったという事実が、葵にとってとても重要だったのではないだろうか。

葵の独白は描かれないから、ただの勘違いかもしれない。

しかし、葵にとっての佐穂子は、本当の自分を認めてもらえるような存在になるのではないかと思う。

 

つまり二人の関係は、「本当の自分」をテーマに発展していくと考えている。

 

 

② 西野ちゃん先生の言葉

西野ちゃん先生は、佐穂子が家庭科部に入る時、葵も家庭科部であることを思い出し、『問題ある子同士って惹かれやすいのかしらね……』と独り言を漏らしている。

 

この発言には驚かされた。

確かに、二人には事情がある。佐穂子は高校デビューを果たし、人気至上主義を崇拝している。葵は母親を亡くし、バスケを中学でやめている。

西野ちゃん先生は、佐穂子の生き方に気づいているかもしれない。また、担任なら葵の家庭の事情も知っているだろう。

 

しかし、それを『問題ある子同士』とまとめるには違和感がある。高校や大学でデビューを果たす人間は多くはないが少なくないし、現在のところ佐穂子に不都合は生じていない。葵の方も、学校生活に担任の目につくような問題があるようには見えない。

 

よって、まだ読者に明かされていない、西野ちゃん先生の知る何かがあると考えている。それが物語に関わってくるだろう。

 

 

③ 杏那の存在

上で書いたとおり、杏那は佐穂子と葵が仲良くするのをよく思っていない。それは佐穂子の知らない何かを杏那が知っているからという可能性もあるが、わかりやすい説なら、杏那が佐穂子に好意や強い感情を持っているという説だろう。

 

要するに三角関係である。

正直に言えば、この説は少し恐ろしい。「最終的にどちらを選ぶのか」という物語になってしまうと、当然意見が別れて読者たちが対立することになる。古くはエヴァ、最近だと俺ガイル、あるいは政宗くんのリベンジだろう。

 

実は今作の原作である竹岡葉月氏は、政宗くんのリベンジの原作を担当していたのだ。

だからこそ恐ろしい。この作品のテーマをそういう方向に持っていってほしくないからだ。

 

もちろん推測の粋を出ない話だ。しかし、少なくとも、杏那の存在が物語に影響することは確かだろう。

 

 

 

物語の展開

これから物語はどう進むのか。鍵になる要素のいくつかは、すでに上で挙げた。

 

このタイミングでなんだが、この物語の展開を考える上で、無視してはならないことをもう一つ、付け加える。

 

それは、「大学3年生冬の時点という物語の中間地点が、すでに明示されている」という事実だ。

 

高校2年生の話をする時、それらは全て回想だ。高校時代に何があろうと、大学3年生冬の時点の状況は変わらない。

 

佐穂子と葵は疎遠になった。

 

最初、高校時代で大きなトラブルがあり、それがきっかけで疎遠になったと推測していた。しかしそうではない。

 

『あれから数年がたって 私は大学生になった』

『彼女とは時々 連絡はとっていたけど 顔はもう何年も見ていない』

『気まぐれな葵から返事が返ってくることはあまりなくて ここ1年は私から連絡はしていない』

 

自然と疎遠になったのだ。

そして、同窓会の会場で佐穂子はこう思う。

『葵と話して私に問いかけたい これは 恋か 友情か』

 

タイトルである『今日、小柴葵に会えたら。』この文の続きはこれだ。

佐穂子は、自分の葵に対する気持ちを確かめたいと考えている。

 

これは推測だが、佐穂子と葵の関係は、高校時代ではスッキリとした形にはならなかったのだと考えられる。だから、気持ちの整理ができず、恋か友情かもわからない。

 

気持ちの整理がついていないのは佐穂子だけではない。杏那も同じだ。

同窓会で『小柴葵なんて来なければいい ずっとこのまま』と発言しているため、二人の関係に対する気持ちは高校時代から変わらないままだとわかる。

 

一方、高校時代に比べ、佐穂子が成長している部分もある。『自分をよく見せようと気張ってばかりいた』という独白から、高校時代の自分を客観的に見られている事がわかる。

佐穂子は、葵との関係を通して、「飾らない本当の自分」を見つけたのではないか。

 

 

大学3年生になってなお、物語は終わっていない。そして、『今日、』葵に会って話をしたとしても、物語は終わらないのではないか、と考えている。

 

理由は単純だ。ボリューム不足だからだ。

繰り返すが、佐穂子の独白からして、高校時代に二人が疎遠になる原因の事件はなかったように思う。だから、高校時代に漫画の尺をそこまで割く必要がないし、割いてもしょうがないだろう。

高校時代の話に話数を割かない以上、同窓会で高校時代の事件の決着をつけるという物語ではなく、同窓会での再会から二人の関係は再開するという物語ではないだろうか。

そして、むしろそこから本当の本編が始まるのではないかと考えている。

 

正直に言えば、この推測には願望が混じっている。同窓会で再会し、相互理解を得てから、また別れるというビターエンドで終わってほしくないという願望だ。

 

 

 

まとめ

1巻についてこれまで語ったが、2巻を読みたいと強く感じさせるようなものはなかった。しかし、僕はこの物語の終わりを見てみたいと思う。

どのページを開いてもフライ先生の絵が見えるというのは幸せだし、高校時代と大学時代の2つの時間軸を同時に描く竹岡葉月先生の脚本にも興味があるからだ。

 

 

最後に、この記事冒頭のアオリ文を読んでもらいたい。

パンチドランク・ラブストーリー開幕!!」

 

変な話だが、佐穂子の疑問への答えはもう出ている。これは恋の物語だ。

 

おわり

現時点の2019夏アニメ感想

たまにはアニオタっぽいことでもすっか

 

荒ぶる季節の乙女どもよ。

誰もやらない表現でわちゃわちゃ青春を描いてるのは見てて面白い。

 

しかし大きい声で言えない”アレ”を描いて、あたかも中学生のリアルを表現しているような顔をしているぶん、細かい部分でアニメ的表現や展開を見せられると「いやないだろ」と突っ込みたくなってしまう。

 

多分原作の漫画からしてリアル(リアリティ)とコミカルの融合を目指しているんだろうけど、自分は見ていて窮屈に感じた。

 

3話、待ち合わせしたチャット相手が先生だったというアクシデントがあったが、ぎょっとして逃げた先生はかなり思慮が足りていない。

先生の立場にしてもどういう人が現れるか不安なわけで、待ち合わせ場所で教え子を見ただけで動揺するのは警戒心がなさすぎというか……ライアーゲーム始めればなんとかなったんじゃないかな。

 

まあ岡田麿里だし考えたら負けか。

 

 

COP CRAFT

村田蓮爾のキャラデザだけあって、ティラナが動いてるだけで満足する。一方男の方は動いてると逆に大味になってる気がする。海外ドラマっぽくて悪くないけど。

 

海外ドラマといえば、原作小説は海外ドラマのノベライズという体をとっているらしい。アニメの方にも随所にそれっぽい要素がある。ミランダ警告とか。

 

セマーニという異世界の設定をしっかり活かせる王道の展開になりそう。異世界に対するそれぞれの意識も現代社会を映し出していていい。

 

ただOPからして撮影がイマイチで作画も不安。

 

OPもEDも良い。若干大石昌良に飽きてきた気がするけど、これは個人的な問題なので。

 

 

炎炎の消防隊

OPとEDがとても良い。特にOPは曲と映像がとてもマッチしていてすごくアツい。

 

内容も単なるバトルものに収まらず、「焔ビト」を成仏させることの意義を問うものになっていて見ごたえがある。

 

それだけに今回の放送休止は残念。3話では建物爆発するらしいので、こういうケースはやむを得ないか。

 

 

ロード・エルメロイⅡ世の事件簿

Fateの何がすごいって、こういう話を無限に書けるくらいの大きな世界を作り上げたことだと思う。和製ハリーポッターみたいな関連作の作り方ができる。

 

一応魔術ミステリを名乗ってはいるものの、肝心のギミックが魔術由来であり、我々の想像を超えている。そのためストーリーとしては「ハウダニット(どうやって実行したのか)」というよりは「ホワイダニット(なぜ実行したのか)」に焦点が当てられるのだと考えている。

 

いかんせんミステリは推理パートが退屈になりがちで、「氷菓」などは独特のカット割りと間に挟まれるイメージ映像で飽きさせない工夫をしていた。

 

今作でも多少のイメージ映像を用いてはいるものの、効果が出ているかといえば微妙。その代り魔術という設定の強みを生かして、派手な映像でバランスを取ってほしい。

 

3話まで見たが、シリーズの根幹を貫く話は第五次聖杯戦争でいいのだろうか?だとすれば世界観の説明は2話までにして、3話はもう少しそれに関わる話を増やしたほうがいいと思った。

 

基本的に主人公は強くないので、そこは頭を使ったストーリー展開で見せてほしいんだが、「奇妙な出来事発生」→「ロードが調査」→「視聴者の知らない知識が使われていた」→「頼れる仲間で事件解決」という単調な展開になってほしくない。

 

OPの梶浦由記によるインスト曲は必聴。強いフルートは強い。

 

監督は「やがて君になる」の加藤誠。

 

 

まちカドまぞく

OPっぽいOPとOPっぽいED。

 

きらら系の例に漏れず、基本的にゆるい登場人物と展開。

 

ワードセンスとテンポが独特で、特にテンポについては漫画のままアニメ化していることがわかる。これ以上やるとテンポ悪くなるな、というかなりギリギリのラインを攻めていると思う。

 

 

グランベルム

リゼロ以来作品に恵まれてない気がする大塚真一郎だけど今回はあたり?

 

まどマギエヴァンゲリオンジョジョを合体させた感じかな?

 

その割に3話で衝撃的展開はない。ちょくちょく伏線というか、謎をチラ見せしてきている。それが後々きちんと説明されるのかがかなり不安。なんでだろう。

 

新月の望みは本当にまどかっぽい。ただ血縁という要素が作品に深く絡んできていて、その部分で面白くなることを期待している。一歩間違えれば昼ドラ展開だけどそういうのは求めてないかな。

 

SDロボに慣れれば戦闘も見られはするがちょっと何やってるか分かりづらい……

 

あと陣営を一気に描きすぎていると思う。見てる側は混乱するし描写不足になってしまいそう。

 

 

手品先輩

カーディガンがテカるのはおかしくないか??????????????頭空っぽにして見られるのは最強

 

 

女子高生の無駄遣い

馬鹿なギャグアニメって感じで面白いけど、ツッコミ役であるロリは常識枠でいいのでは……?

 

あくまで女子高生なのに見た目がロリだから面白いのであって、中身の精神年齢まで外見に合わせた結果「お肉のお遣いを頼まれ駄菓子を箱で買ってお肉買えませんでした」は笑えねえ

 

ほかは笑えるからこのまま見る

 

 

おしり

今期の終わり頃に見直したらおもしろそう。おわり

お前ら大丈夫か?僕は限界だ

京都アニメーションという会社の存続の問題でもある

この会社とブランドは今後どうなる?

 

社員が大勢いなくなって

原画も資料もPCも燃えた

 

これから世に出ていくはずだった作品たちも

そのクレジットに載るはずだったクリエイター達も

もう戻ってくることはない

 

怒りのやり場など無論ないし

容疑者の処遇も所詮罰であって保障ではない

 

今度募金に行こうと思うけど

失ったものが戻ってくるわけではない

ただ京アニというブランドを残したいだけ

 

ネゴヂェエで発散できる人が羨ましい

ノーネゴヂェエなので……

 

こういう場合は時間に頼るしかないのか

誰にとっても時間の進みは畏れの対象だけど

今回は感謝するしかない

 

時間に頼るしかない